レンタルBDでバズ・ラーマン監督『華麗なるギャッツビー』を観た。
フィッツジェラルドの原作『グレードギャッツビー』は村上春樹訳で途中まで読んで挫折。
映画観たノリで再読のきっかけにしたいと思ったが、重たい腰はあがってくれるかな(汗)
そもそも原作を読もうと思ったのは、数年前に谷中ボッサで知り合ったクレアという美術史研究者に丸井金猊の屏風『壁畫に集ふ』を観てもらったらグレートギャッツビーの世界観を思い出すと言われたから。何となく新訳本が読みやすかろうとあまり得意ではない村上春樹の訳本を買い求めたのだが、訳者への苦手意識のままに途中で挫折してしまったのだ。
アメリカ社会の表と裏に関心があったり、1920年代のアメリカファッションに興味があるとおそらく違う見え方がしてくるんだろうが、血みどろの歴史の堆積を背負ってない豪華絢爛には「あっ、そう」という以上の興味があまり湧かない。
ただ、映画を観終えて一点、こういう見方をすれば色々見えやすくリアリティを持って続きを読めるかな?とも思った。
それはディカプリオが演じたジェイ・ギャッツビーをホリエモンだと思って観るのである。
そうすると真っ直ぐ過ぎて逆に入って来づらいストーリーもすんなり入ってくるような気はする。
とは言ってみたものの、『グレードギャッツビー』を読了し、クレアの指摘を咀嚼できるようになるのはいつのことか?
ギャッツビーが憧れのデイジーを呼び寄せた花に囲まれたニックのコテージのセットにはちょっとそれっぽさも感じはしたが、デイジー役のキャリー・マリガンは『壁畫に集ふ』の乙女とは似ても似つかないんだよな〜。クレアは何を思ってそう言ったんだろう。