R.I.P.

P.50
私の人生の最初の死は初等学校の時、家で5、6ヶ月余り育てていた黄色い 縞模様の
猫、ナビの死だった。
ナビは大部分の子供達がそうであるように対象を配慮する方法を知らなかった私達姉弟に
多分望まない方式の愛情を溢れるまで表現されていた悲運の猫だった。
あの子の眠った姿と廊下を歩く足取り、人間より高い体温等は私達を魅了し、どんなに
学校で自慢していたか、余り親しくなかった級友達がナビを見に私達の家に来たほどだ。
その後、多くの動物を育てながら、今の私はもう猫と子犬の生態の専門家になっているけれど、
その当時、私の家には猫に対してよく知っている人はいなかった。ナビはとてもありふれた
腸炎にかかり、数日嘔吐しやせ細って死んだ。今もナビが吐いて出していた黄色い吐瀉物と
苦しんでいた姿が昨日のことのように生々しい。動物の死んだ体というのは本当に妙な感じがする。
私が書いているこの体も殻だけであることも、死んだ体は教えてくれる。こちこちに固まって
静かに目を閉じていたあの子の体はどこかに消えて花と木になったのだろう。
ナビ、R.I.P.


P.53
私の人生の2番目の死は中学校3学年が終わろうとしていた冬の祖父の死だった。
この死は私にいくつものことを教えてくれた。葬儀はとてもややこしい手順を踏まなければ
ならないことであること、親戚の総集合はとても怖い結果をもたらすということ。
祖父は祖父の時代の貧しくない男性達がみんなそうだったように、よく遊ぶ気質が濃厚で
利己的でとても立派な人ではあられなかったけれども、亡くなられた翌日、親戚の人達の
夢に出てきて、「乞食の人達がいるところにいるので、お腹が空いた」とおっしゃったので、
祖母が町中の乞食に葬儀の食事を分けてあげられた。
私を長女ではない長男として教育した父が私に祖父の屍を触ってみろとさせたため、私は祖父の
屍をゆっくりと触りながら、屍や死が恐ろしいのはやはり未知に対しての漠然とした恐怖感の
ためなのだという考えを持った。祖父の全部使用した肉体は固くて冷たくて変な色で、一時人間で
あった物質ではなく、初めから岩やカーテン、スタンドのような無生物であった物体のように
全然生命の痕跡を探すことのできないあるものになり、口を開けて似合わない場所に置かれてあった。
生きて存在していたのとは別の非存在の存在になられた祖父、R.I.P.


P.54
私の人生の3番目の死は高等学校1学年の時、全校的に評判が良かった3班の班長のそれだった。
彼女は成績も性格もとても素晴らしくて、天性的に大人しく、明るい人だった。けれど、本当に
虚しくも、その年、1学年3班がお祭りに販売するトッポッキの材料を買いに市場へ行きかけて
横断歩道で車に轢かれて、いくらか昏睡状態になった後、違う世界へと去った。彼女と一緒に
市場へ行った私ととても親しかった友達は事故が起きた時、自分が何もできなかったと、ただ、
彼女が車に轢かれたのを見ていただけだと言った。もしかしたら、私の友達は彼女の死に対して
罪責感をもっているかもしれない。私なら、“私がトイレに行かなかったら” とか、“私がもう
暫くトックを選んでいたら”とかいうしがない苦悶で長い間苦しんだようだ。勿論、10代、
あるいはもっと幼い年齢でも人は死ぬことができるということを知ってはいたけれど、この死は
余りにも突然に起こった。私自身も今この瞬間、死と共に歩いているということを肌で感じた
初めての経験だった。
当時、3班にはまた別の私の親しい友達がいて、彼女が入院した病院にお見舞いに行った話を
聞いたりしたけれど、昏睡状態にいながらも彼女は亡くなる直前に涙を流して亡くなったという。
彼女のご両親は今も彼女を愛しているでしょう。
3班の班長、R.I.P.


P.56
私の人生の4番目の死は大学校3学年の時だったか、新村にあった行きつけのバー、
“ローリング・ストーンズ”の火災に因る、別の常連客の団体の死だった。実はこの日、
私も死んだり深刻な火傷を負うところだったかもしれない考えを振り落としてしまうことが
できないのが、音楽同好会の集まりの公演のために新寺洞にある合奏室で練習して、江南駅の
近所の行きつけのお店で集まりの人達と一緒に音楽を聞いておしゃべりしてふざけていたけれど、
その日買っていた本を読もうと、私だけ江南駅に残っていた日だったけれど、その本がなかったら
私も明らかにその火災の日、新村に一行について出かけていたことが明らかであるからだ。
そのお店にあった数十名のお客さんのなかただ2名だけが生き残ったこの日の火災で、よく
知っているのではなかったけれど、顔見知りがいた多くの人々が死亡し、私が知っている一番素敵な
男の子の中の一人が大きい怪我を負い、何年かが経った今も心理的、肉体的な後遺症を持っていて、
どういう理由でか、私自身も心理的な傷を受けてしまった。この事故で違う世界に行った方々や
負傷を負った友達には本当に申し訳ない話しだけれど、だから、私もこのことのために心の中の
何かを失ってしまったのだ。考えてみると、それは本当に変で恐ろしい事件だった。その日、
午前零時頃、TVに出てきた速報を見て駆けつけた応急室は現実世界とは全然相関のない、ある異空間で、
知人が5分間隔で次々に息を引き取っていた。そして、私は夕方別れていたのと余りにも違う姿で
応急室の寝台に横たわって全身に包帯を巻き、もの凄い量の鎮痛剤を打ってもらっている友達の横で
ただ座っているだけ、状況をよくするどんなこともできないのだ。
一晩中、応急室で無力に徹夜をした私と同好会の別の人達は朝が来てから、やはり無力に家に帰った。
ローリングストーンズ、R.I.P.


P.59
私の人生の5番目の死は97年の秋夕(中秋節)の連休が始まった日のボーイフレンドの死だった。
彼は27歳で、その前まで私が会ったどんな人よりきちんとしていて美しい品性を持っていた。
彼は病気があったこともなかったけれど、ただ、ある夜、寝てから死んでしまったという。みんな過労だと話した。
この死は私に多くの代価を支払わせた。私は何ヶ月かの間、寝ることが難しくて、寝たらいつも彼の夢を見た。
食べることも、笑うことも、何かをろくに考えることもできなかった。
97年のその時期は紫雨林がデビューした直後で“hey,hey,hey”を盛んに演奏していた時で、私はずっと放送に
出て歌い、インタビューをやりながら、人々に笑い顔を見せなければならず。同時に1集の曲の手入れ作業と
レコーディングを並行しなければならなかった。
花のような美しい息子と兄を失った彼の家族の悲しみに比べることはできないけれど、私も本当に悲しかった。
最近、静かにそのことを考えてみながら、私はある仮説を作ってみた。
最初に彼にあれほど魅了されたのは彼の美しい品性、情のこもった心遣い、美しい魂を越えて、
死の予定に漂うある種類の切実さのためではなかったのかという仮説だ。この仮説によって、私は初めて
彼の死から少しだけれども解放された。
美しかった人、R.I.P.


P.61
周辺のいい人々の突然の死に会うたびに、私は知ることのできない罪責感に陥り、激しく私の人生が
他人の死を 燃料として転がって行っているのではないかという妄想に囚われる。そして、それらの死が
私に永遠はないのだという不変の真理をまた一度教えてくれて、何事も私が考えることのように重要では
ないことを、同時にそれ故にすべてのことが尊いのだということを繰り返して思う。
私が知っているすべての人達と私自身も今すぐ、または、いつか死に会い、知ることのできないある場所に
行かなければならないだろう。
いつか、私自身のために、R.I.P

 

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